冗談めいて言ったのだが、ノエルちゃんはそう取らなかったらしい。 「比喩でも哲学論でも宗教的観点からの話でもありません。真実なのだから仕方がありませんでしょう。 彼女にとってもよくわからないのだから、俺にとっては尚更よくわからない。 「俺にも、よく意味が解らないんだけど」 「実演するのが一番早いですよね。百聞は一見にしかずと、昔の方は賢いことをおっしゃっています」 そう言ってノエルちゃんはゴルチエのバッグからメモ帳とボールペンを取り出した。 「ここに、あいうえおと書いてください」 「は?」 自分でも予想外の間抜けな声が漏れた。意味はよく解らなかったがノエルちゃんはいたって真剣だった。 「待って。書く前にもう一つ条件があります。あいうえおと書いている間に、自分の携帯番号を思い浮かべながら書いてください」 「わ、かりました」 俺の方が三つも年上だというのに、何故か怯んでしまう。 俺は言われるがままに、頭の中に自分の携帯番号を思い浮かべながら『あいうえお』をゆっくりと書いた。 「書き終わったよ。いったい何をするっていうんだ?」 俺の言葉はさらりと流された。ノエルちゃんは僕を無視してメモ帳をじっと眺めている。 しばらくして、ノエルちゃんはゴルチエのバッグから自分の携帯電話を取り出した。 俺は少しむっとした。何故目の前に僕がいるのに誰かに電話しようとしているのか。 プルルルル、店内に携帯電話の電子音が鳴り響いた。 「煩いなぁ」 俺が言うと、ノエルちゃんは携帯を耳に付けたままクスリ、と笑うばかりだ。一体どうしたというのだろうか。 しばらくして俺はハッとした。 この不愉快な電子音は俺のポケットの中から発せられているものだ。 なんということだ。俺は気恥ずかしくなった。 ノエルちゃんを前にして電話に出るのは失礼かもしれないと思ったが、彼女だって誰かに電話をかけているし、構わないと判断した。 「もしもし」 「もしもし。ごきげんよう。人と会う時には携帯はマナーモードになさった方がよろしくてよ?」 俺は、一瞬身体の全機能が停止したかのように感じた。声の主は聞き覚えのある人物だったからだ。 携帯から飛び出してくる声、そしてノエルちゃんが喋っている声が一致している。 そう。電話の主は今目の前にいるノエルちゃんだったのだ。 「どうしたんですか。豆鉄砲を食らった鳩のようですよ?」 「ど、どうやって……だって、俺、君に携帯の番号を教えてないのに」 気が動転した。メールアドレスは教えていたが、携帯番号を教えた覚えは無い。 思わず携帯を閉じ、体を仰け反らせてしまった。 「一体全体、どういうトリックなんだ? どうやったんだい?」 「さあどうやったのでしょうねぇ」 嬉々とした声で言うノエルちゃんは、玩具を手に入れた子供のようだ。 これは手品に違いないと思った。俺は一杯喰わされたのだ。でも、どうやって? 「教えてよ。何がなんだか解らない」 「今やったままですよ。あ、おかわり下さる?」 通りかかった店員にノエルちゃんは声をかけた。 コーヒーのお代わりよりも、このトリックの方がより魅力的なのだから。 「もったいぶらないで、教えてよ。これと君が自殺したがっているのとどう関係あるっていうんだ?」 ノエルちゃんは俺の問いにはすぐには答えず、2・3口コーヒーを飲んで一息ついてから口を開いた。 「これからお話すること、笑わずに聞いて下さいますか?」 「もちろん」 内容によるが、とは付け足さなかった。真実をこのまま誤魔化されるのは癪だった。 「私は生まれた時から文字から書き手の感情が解るんです」 言葉の意味が理解できず、俺は閉口したままでいた。そのまま目でノエルちゃんに言葉の続きを促す。 「例えば、先ほどのように杉夫さんが『あいうえお』を書きましたでしょう? あの時に携帯番号を思い浮かべて欲しいと私は言いました」 「うん」 「つまり、書いている文字が全く関係のないことだったとしても、その時に書いている人の感情が――考えていることが解るのですよ」 「どういうことなの? まさか超能力だとか言わないよね?」 「そういった取り方をする方もいらっしゃるかもしれませんね。このことを説明するのは少し、難しいのですが」 ノエルちゃんは一度深呼吸する。 「世の中には『共感覚』というものを持っている人たちがいるのですよ。確か、数百人に数人程度だったと思います。うろ覚えでごめんなさい」 「その共感覚って何?」 「そうですね……一つ例に挙げますと、文字に色や匂い、音などを感じるのです。 そういえば、昔そういった人たちを特集した科学特番をやっていた気がする。 「私の能力はそれらに近いのだと思います。彼らは文字の周りに漂っている音・匂い・温度・色彩といった『感覚』を見ることが出来る。 私は、文字の周りに漂っている『感情』を見ることが出来るのです。こう説明したら解って下さるかしら?」 まことしやかに信じ難い話ではあるが、俺は彼女の話に聞き入っていた。 「じゃあ、街なんか歩くと大変だったんじゃ? だって街は文字だらけだ。 「おっしゃるとおりです。だから私は街をあまり出歩きません。 それより大変だったのが、やっぱり学校でした。 例えば、今日は早く帰りたいなぁとか、こんなにちんたら授業してても給料もらえるんだから手を抜いちゃえ、とか。 私は世の中の皆も同じように文字を見たら人の感情が解ると思っていたので、友達に言ったんです。 そうしたら、その子が先生に言ったんです。ノエルちゃんが言ってたのって本当? 先生本当は早く帰りたいの? って。 ノエルちゃんは悲しげに目を伏せて、すぐにガラス窓に目を移した。 「それで知ったんです。世の中でこういった能力を持っているのは私ただ一人だったんだって。それからが地獄でした。 ノエルちゃんの服可愛いかったよ。って日記に書かれていても、本当はそうじゃない。 「だから死にたくなった?」 「いえ。それとこれとは別件です」 「では何故?」 「見ちゃったんです。私」 ノエルちゃんは声のトーンを落として呟いた。 「とある自殺者の遺書を」 NEXT |