私は今、ブラックコーヒーを飲みながら殺人を犯している。 暖かな木漏れ日が差し込む喫茶店。その窓際の席で、私はカップを口から離した。 黒い液体に角砂糖を放り込む。やはり高校生の私にブラックは無謀な挑戦だった。 砂糖を優しくかき混ぜて、スプーンを皿に置いた瞬間私は悟った。店内の誰一人として、今私が人を殺したことを知らない。 呼吸が荒くなるのを感じた。顔全体に、生ぬるい汗が滑る。激しく打つ鼓動の音が、頭の中で反響している。 「お客様」 突然の声に、私は顔を上げた。それと同時に、出来の悪い左手がコーヒーカップをひっくり返した。 乱暴な音と共に、食器と黒い液体が床に散らばる。飛び散った熱い液体が腕にかかり、私は現実世界に引き戻された。 「大丈夫ですか!?」 「す……すみません!」 声が裏返っていた。何かもっと気のきいた言葉を発するべきなのだろうか。けれどまるで、喉の奥に異物が詰まったようだ。 慌てて散らばったカップを拾っている店員の手には、私が注文していたアイスが載っていた。何も恐れることは無かったのだ。 私は脅えた目で、店内を見回した。物音に驚いた客たちが、私と店員に視線を向けていた。 私は固く目を閉じて、制服のスカートを握り締めた。胃から黒い液体が逆流しそうだった。 「あれっ! 蜜柑じゃん!」 悪意の中で、一際異質な声が振ってきた。甲高い、どこかで聞いたことのある声だった。 「ナギちゃん?」 入り口に立っている少女に、私は見覚えがあった。中学の時のクラスメイト、ナギだ。 以前に比べて化粧がやや濃くなっている。 「あらら。何やってんのさこの子は」 甲高い声を上げて、床のカップを拾おうとするナギを店員が制する。 「ごめんなさいねぇ。この子おっちょこちょいだからさ」 まるで近所のおばさんのような口調で、ナギは笑っていた。 店員が居なくなった後、彼女は当然のように私の前に腰をかけた。 「久しぶりじゃん! 何あれ、店員にコーヒー引っ掛けられたわけ?」 「ううん。そうじゃなくて、私が……」 そう言ったが、まだ心は冷静では無かった。思わず目が泳ぐ。その様子を不審に思ったのか、ナギは顔を不安の色に染めた。 「蜜柑? どうかしたの? 体でも悪い?」 唇の血さえ引いている気がした。ナギの優しい声が、私の胃を更に重くする。私は、小刻みに揺れる体に力を入れて口を開いた。 「ナギちゃん、私……人を殺した」 「へ?」 間の抜けた声だった。そしてそれが正常な人間が取るべき反応でもあった。優等生の解答だ。 そして彼女の表情もそれにそぐったものだった。口を半開きにして、呆気に取られている。 「……なんて言ったらびっくりする?」 顔を笑顔の形に歪めたつもりだけど、本当に笑っていたかはわらかない。 ナギは困ったような苦笑いをして、私の顔を眺めている。それを見て、もう私の胃は限界だった。 「ナギ! ごめんお待たせ!」 その時、店の入り口から一人の少女が駆け寄ってきた。制服を見ると、ナギの高校と同じものだった。ナギの連れということは明白だ。 「あ、友達みたいだね。じゃあ私そろそろ出るから」 「え? あ、ちょっと蜜柑!?」 ナギが何か言ったようだったが、私は気にせずそのまま店を出た。
『田中さんは本当に素晴らしい生徒でした。彼女のような才気に溢れた素晴らしい生徒を失ったことを、まことに残念に思います。 テレビの液晶画面から、高校の校長の声が聞こえる。けたたましいフラッシュの中で、小さくなっている姿がいたたまれない。 彼は『その犯人』が私だということを知らない。そして、これからも永遠に知ることはないだろう。 私が隠したあの死体は、予想以上に早く見つかってしまった。 だからこんな状況になってまで、学校に行く気にはならなかった。 私はベッドの中でぼんやりとしている。誰もいない部屋。私にとってそれはとても落ち着く空間だった。 仕事に出かけた母親はほとんどこの家に帰ってはこない。 今この部屋の、誰も居ない空間はいつもとなんら変わらない。 「ねえ。死体は見つかってしまったね。すごく残念だわ」 誰も居ない空間に声を放つと、それは虚しく響くだけだ。 けれど、誰もいないはずの部屋だというのに、声が聞こえてきたのだ。凛とした男の声だ。 「そうだね。僕も残念だよ。僕がもっと上手くやればよかったね」 私がよく知っている青年が言う。 「ううん。結局私が悪かったわ。川に流せば流れも速いし、もう少し離れた地点で発見されると思ったのだけど……」 「いいじゃないか。俺が見つかっても、君は絶対に捕まらない」 その言葉に、私は思わず頬をゆるめた。それと同時に、ひどく虚しくなってきた。 「いつまで続くんだろうね。この一人芝居は」 「君が望むまでだよ」 頭の中の青年は、優しい声色で言った。いや、私が言わせたのだ。 彼は私の代わりに人を殺してくれる。けれどそれは私が望んだことで、結局少女を殺したのは私なんだ。 「ねえ、私は捕まるかしら」 「そんなはずはないだろう。捕まるなら僕の方さ」 自分が安心するためだけに言わせた言葉だ。解っているだけに、寂しい。 「そうね……」 乾いた声は、意味の無い返答だった。私は二度寝するためにテレビを消して布団を深く被った。 |