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 幼い頃から私は、他人の頭の中を行き来するのが好きだった。


 何時からだっただろう。気づいた時にはもうすでにその遊びは始まっていた。

 私が魚だとすると、他人の頭は水槽。自由自在に飛び回り、私は彼らになることができた。

 それは意識を乗っ取るようなものでなく、霊能的なものでもなかったはずだ。

現に私は全く幽霊は見えないし、そのテのものはどちらかというと疑うタイプの人間なのだ。

 ――彼らの中にある世界を、私は少しばかり垣間見るだけ。


 私はベッドから身体を起こし、窓を開いた。真冬の風が頬を刺す。

 窓の外で、小学校高学年くらいの少女が散歩をしている。

 私は彼女に意識を集中する。

「彼女になる。彼女になれ」

催眠術のように呟くと、口から白い息が漏れた。いつも呟くオマジナイのようなものだ。

冷気で鼻の奥が痛む。

 意識が私の身体を離れた。浮遊するように彼女の中に潜り込む。

 次の瞬間、私はコンクリートの地面を踏んでいた。視界が少女の主観に変わる。

少女が感じていた冷たい風を、身体全体で受け止める。

 これはいわゆる “妄想 ”だ。実際に彼女になっているわけではない。私は意識して、少女になりきっているのだ。

いつも暇な時にふと、私はこの遊びをしてしまう。

 例えば駅のホームにいる時に見かけた通行人。もし私が彼になったらどうだろう。

そう考えているうちに、私は彼らになっているような錯覚を起こし始めた。

当然のことだが、実際の私はごく普通の女子中学生。周りと変わっている点はこの妄想だけだ。

内向的で、なかなか自分の気持ちを外に現すことができない。そのため友達も多くなく、この妄想は私にとっての逃げ場でもあった。

 ふと私は思いつく。

「もし他人じゃなくて自分になったらどうなるんだろう」

 今までは他人にばかりなりきっていたが、もし自分自身に潜り込むことが出来たらどうなるのだろうか。

そんな疑問が脳裏によぎった。

 馬鹿馬鹿しい妄想だ。そもそも自分自身は現実で操作出来ているというのに、何故そんな妄想をする必要があるのか。

 けれどあまりに暇だったので、その愚かしい妄想を私は実行することにした。

ただの妄想である。もし妄想の世界で何かがあっても、現実の世界でケガをするわけでもないし、死ぬわけでもない。

 妄想の世界だったら、どんな風にだって生活出来る。どんな私にだってなれる。

 私は一抹の期待を抱きながら、意識を集中した。妄想の世界に、私の身体が吸い寄せられていく。

「やっぱり、なんにも変わらないか」

 現実の世界となんら変わらない妄想の世界で呟く。現実の世界で声は出ていないはずだ。

 いつもと変わらぬ部屋の風景が広がっている。

「でも、妄想なんだからなんでも出来るよね」

 いろいろと考えを巡らせる。

 空を飛んでみようか。それとも、海外旅行でもしてみようか。

頭の中でその風景を描くだけで実現出来るのだから、なんとも安く便利な話だ。

 案外現実だって妄想と同じなのかもしれない、ふと私は思う。

実際に旅行に行きいくら旅行の思い出を論じても、それは過去のことであってもうすでに無いものだ。

 過去の記憶は美化されるし、現実の思い出が真実だとは一概に言えない。

「……取り合えず、壷でも割るかな」

 家の玄関にある悪趣味な壷のことだ。ロココ風な装飾で、天使と薔薇が描かれている。

家全体の雰囲気が和風なのに、この壷だけ浮いているのだ。

ある日唐突に、母が骨董品屋から買ってきた。母の趣味だから仕方がないが、すぐにでも割ってやりたいほどの代物だった。

 私は自室から出て階段を下りる。現実の世界と変わらない玄関の様子が見えた。例の悪趣味な壷がでんと置いてある。

 その前のフローリングを、母が掃除している。ぎくりとしたが、私は自己暗示をかける。

「妄想なんだから、大丈夫」

 私は母の脇をすり抜けて壷を手に取る。妄想だというのに、壷はひんやりと冷たかった。

 鼓動が早くなり、手が汗ばむ。

 私は壷を振り上げ、思い切り地面に叩きつけた。気持ちが良いほどの音が鳴り響き、壷の破片が玄関に飛び散る。

「痛っ」

 肘に激痛が走った。飛び散った破片が私の肘をかすったのだ。真っ赤な血が流れている。

 私は思わず目を開いた。

なんて妄想なんだろう。妄想の世界でケガをするだなんて、凄く面倒だ。

そういうところにすらリアリティを求めている自分が虚しくなった。

私は玄関でなく、部屋に立っていた。妄想は妄想でしかない。

「きゃぁっ!」

 金切り声のような悲鳴が響いた。母の声だ。私は慌てて階段を降りる。

「お母さん、どうしたの!?」

 母は玄関に突っ立っていた。

「これ、見てよ。今玄関の掃除をしていたら、いきなり壷が割れたの」

 母が指さす先には、飛散した壷の破片があった。

 私は思わず息を呑む。額に汗が滲んだ。

 しかし、どう考えたってこれは偶然に違いない。

「も〜……折角お気に入りだったのに。なんでかしら? ちゃんとバランスの良い棚 に置いたのにねぇ。

ものの数秒だけ目を放した隙に割れたのよ? まさか誰かが落としたなんてことはないし……。不思議ねぇ」

 母は首を捻って言った。

「あら。トモ。あなた、肘どうしたの?」

「え」

 その言葉に促され、私は自分の右肘に目をやった。

 そこには先ほど妄想の中で、壷を割った時に負ったケガがあった。

 私は動揺した。そんなはずはない。しかし頭でどう否定しても、そこにある真っ赤な血は紛れもなく本物だ。

「これ、学校で切っちゃっただけ。カサブタが取れちゃって」

 しどろもどろに言うと、母は訝しげな表情を浮かべた。

「学校で? あなた、イジメかなんかにあってるわけじゃないわよね? 大丈夫なの?」

「そんなんじゃないってば!」

予想以上に大きな声が出た。無神経な母に対する怒りと、この事態に対する混乱によるものだ。

 私はどうしようもなくなって、階段を駆け上がった。そして自室に飛び込み、鍵をかける。

 激しくなる動悸と息切れに、私はうずくまった。

「偶然よ。偶然に決まってる」

 しごく当たり前の話だ。妄想が現実になるなんてことはあり得ない。非科学的な話だ。くだらない。

恐怖を感じている自分自身があまりにくだらない。

 きっと肘の傷も知らぬ間に負ったものだ。本当に学校かどこかで切っただけだ。そうに違いない。

「もう一度、試してみようかな……」

 どうしても確証を得たい。不安要素は早めに取り除いておきたい。

 私は一心に目を閉じた。真っ黒な視界に、部屋の風景が浮かんでくる。先ほどと変わらない自室だ。

私は妄想の中で起き上がる。そして開けっ放しの窓の枠に手と足をかけた。



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