「自分が他人になるなんて、ありえるんでしょうか」 「ありえるもありえないも、それを俺に問うてどうする? 無駄な質問をするなよ無凍くん?」 空風博士は嘲るような口調で言った。 先ほどからの無礼な態度だが、何故かそれがあまり腹立たしくない。それはその侮辱さえ空風博士の人物像に合っているからだろう。 銀縁の細い眼鏡をかけていて、その下の神経質そうな瞳が覗いている。 白衣を纏っているため、まさに博士といった井出達だ。 ほっそりとした顔立ちに薄い唇。切れ長の目が印象的で、蒼白い肌が死者を連想させる。 「己で動かぬ者は何も得られない。自らの足で地を踏むしかないのだよ」 「自分が確かめるしかないってことですか?」 「まあそういうことだ。俺に何を期待していたんだ?」 別に期待していたわけではない。ただ少しでもこの奇妙な出来事のヒントを得られると思っただけだ。 「もう、先生! 少し杉夫さんを苛めすぎですわよ」 「ああ、悪かったねノエル。別に悪意があるわけじゃあないんだ。無凍くんは苛め甲斐があるなぁと思っただけさ」 「それが苛めてるっていうんですよ。全く」 ノエルちゃんは腹だたしいようだが、普段からこのやり取りに慣れているようだった。 ノエルちゃんはスムーズな手つきで、紅茶をテーブルに置く。 俺と空風博士とエラト、そして自分の紅茶だ。テーブルを囲んで、ソファに腰を掛ける。 エラトはしばらく眠っていたようだが、紅茶の熱気を感じて目を開いた。 「俺がノエルの能力を研究し始め、既に13年経った。それほどまで月日を要してもまだ真実は掴めていない。 「せんせいっ」 ノエルちゃんが不機嫌に顔を歪めた。 今日も全身真っ黒で、レースの塊のような服を着ている。その服装が余計に、彼女を不機嫌な人間として印象付けてしまう。 「あーわかった。わかったよ。順序だてて話そう。まず、ノエルの能力は今仮称で“活字症”という」 「活字症? 文字を見たら人の感情が解るというやつですか」 「そうだ。でも感情が解るっていうのはちょっと違う。確かに感情も解るんだが、正確には活字を書いた時の温度や匂い、感覚まで解るらしい」 なるほど、そうなるとかなり便利な能力なのだろう。俺は純粋に納得する。 「別に特別な能力ではない。例えば海の中でもはっきりと水中が見える種族がいる。 東京のビル群を見渡すと定規で測ったかのように、そのままキャンパスにデッサンすることが出来る人間がいたりする。 つまり、これからの人々は能力に特化しているだけで異常な訳でもないんだ。 「僕のような人間も他にいるということですか?」 目を擦りながら、エラトが口を開いた。まだ眠そうだ。 紫外線を避け、室内でもフードを被っている。その下から白髪と、紅い目が覗いていた。 「可能性はゼロじゃないね。まあでも、エラトくんのように二つの身体を上手く扱える人間が居るかどうかの問題じゃない? だからもしエラトくんのような人間が居たとしても、それを隠して生きているかもしれないし、適合できず死亡している可能性が高い」 「ちぇ。つまらないですねぇ。お仲間に出会えたら良いんですけど」 「何故そう思う?」 「だって、もしそんな仲間が居たら楽しいじゃないですか。 不謹慎な発言だが、恐らくエラトの本心だろう。無邪気な笑顔が発言の不穏さを余計に掻き立てている。 エラトはあれ以降俺を慕うようになった。 沢田 蜜柑の身体を失い、自分の人生を生きると言い出したのだが、蜜柑の身体でこっそりと両親から奪っていた生活金を、得ることが出来なくなった。 そのため、俺に頼ることしか出来なくなったらしい。アパートを出て、今は俺の借りたマンションに住んでいる。 けれどエラトはこっそりと抜け出し、まだ殺人を犯しているらしい。 もう手に負えないので、俺はなるたけ関わらないようにしている。 「君の殺人衝動についても興味深い。どうしてそんなに人を殺したいと思うんだい」 「ん〜そうですね。まあ強いて言うならば、楽しいからですかね」 「殺人行為自体がかね?」 「そうですね。死んじゃえばそれまでですよ。殺すこと自体が楽しいんです。死んじゃったら動かないし騒がないし、全然興味沸きません」 殺人が楽しい。その感情を理解することは出来ないが、自殺請負人の俺が言えた口では無い。 過程でなく結果が楽しみなのだ。 「狩猟の血が騒ぐみたいなところがあるのかな?」 「そうかもしれません。よく解らないっていうのが本音です。ただ楽しいだけなんですよね」 「私には理解出来ませんわ」 ノエルちゃんは目を細めて紅茶を飲む。 「別に貴女には理解して欲しくないですよ」 「な、なんですかその言い方は」 どうやらノエルちゃんとエラトは仲が良くないらしい。 あの事件から、空風博士とノエルちゃんが住んでいるこの屋敷に来ることが増えた。その度にエラトとノエルちゃんは妙に衝突している。 「マスターは僕のこと理解してくれますよね?」 エラトは俺に質問を投げかける。まさか話をふられるとは思っていなかったので一瞬怯む。 マスターとは俺のことで、エラトが勝手に名づけた。これからは俺がエラトの主人になるからということで、マスターと名付けられた。 別に主人になる訳では無いのだが、命を握っているという時点で仕方ないのかもしれない。 「なあエラト。その……マスターってやつは、慣れないからやめてくれないか?」 「嫌ですよぅ。無凍さんでは余所余所しいし、杉夫さんだとノエルさんと被るから嫌です」 「なんで私と被ると嫌なんですか!」 「まあまあノエルちゃん。こいつもそこまで悪気が無いから怒らないで、ね?」 ノエルちゃんは不服そうに目を伏せた。 俺がこう言ったのは、エラトに悪気があるかどうかは解らないのだが、こうでも言わないと収まりがつかないと思ったからに他ならない。 「といいますか、私は紅茶を入れていたので全く状況が把握出来ていないのですけれど、一体どういうことなのですか?」 「僕も眠っていたので……」 ノエルちゃんは仕方が無いが、エラトの方は人様の家で眠るとは凄い度胸だと思う。 「実はね、一昨日メールが届いたんだよ。 「自殺の依頼ですか? 全く、嫌な御時世だ」 猟奇殺人犯のお前が言えた口では無いだろう。俺は呆れたが、続きを言う。 「自殺の依頼には違いないんだけど、ちょっとその文面が奇妙でね。なんと、自分は妄想の世界に閉じ込められているって話だそうだ」 「妄想の世界に閉じ込められてる? 精神を病んでらっしゃるのかしら?」 「俺も最初は冗談か、もしくは精神病のことを言っているのかと思ったんだけど……どうやら違うらしいんだよね。 「どう考えてもイタズラでしょう。ふざけてるとしか思えませんね」 エラトがそう言いながら紅茶を啜る。 「でも自殺を請け負った子が俺の連絡先を教えたくらいだし、信用に値すると思うんだけどねぇ」 「マスターは誰もかれも信用しすぎですよ。それじゃあすぐに警察に捕まりますよ?」 図星をつかれて俺は怯む。確かに俺はこんなことをしている割には、人を容易く信用しすぎる。 「別に俺は実際に彼女らを殺害したわけじゃないよ」 「あら。そうだったのですか?」 ノエルちゃんが本当に不思議そうな声を漏らした。 「私は今まで杉夫さんは依頼を受けたら、依頼主を殺していたのだと思っていました」 「それならただの殺し屋じゃないか」 「だって、ニュースで言っていた自殺請負人はそういうものでしたよ?」 不服そうな表情だ。ノエルちゃんは頬を膨らませる。 「俺の場合は実際に相手を殺すわけじゃあない。俺が依頼を受ける人たちは、もう死ぬ決心が付いている子たちばかりなんだよ。 うちの家系は医師一族だから、俺もいずれは医者の道に進む。だから兄の大学病院に通っていたんだよ。 「背中を押す? 飛び降りさせるのですか?」 「そういう意味じゃないよ。気持ちの背中を押すっていうことだ」 ノエルちゃんは釈然としない表情を浮かべている。 俺は紅茶を一口飲んで一息つく。 「つまりね、自殺を依頼してくる子達はもう死ぬことを決心している子だけだから。俺は彼女らに自殺をアドバイスするんだよ」 「アドバイス?」 「まず彼女らの話を聞くんだ。どういうことがあったとか、過去の辛い経験だとか。すると彼女らはもう思い残すことは無いって言うわけだ。 「何故綺麗に殺す必要があるのですか?」 ノエルちゃんに問われ、俺は思わず口を噤んだ。 まさか死体を保存して観賞しているだなんて、口が裂けても言えない。 「まあ……汚いよりは綺麗な方が彼女らも満足だと思って」 適当に返事をしておく。ノエルちゃんは大して気にしていないようだ。 「兎に角、杉夫さんは人殺しではないんですね?」 「グレーゾーンではあるけどね……実際に手をかけていないとはいえ、そうやってアドバイスしている時点で人殺しと言えるし」 「それにしても、依頼する側だって自殺をやめる権利もあるわけですから。実際に杉夫さんが手をかけていなくて安心しましたわ」 「自殺請負人は実際に手をかけるわけじゃない。ただ背中を押すだけなんだ」 格好をつけられるような話じゃないけれど。 俺は現実社会で苦しんでいる彼女達を解き放ってあげたい。人形として彼女らを保存するという目的は俺の性癖というだけの話だ。 もし俺がそのきっかけになれたら……そう感じるのは多分屈折した感情なんだろう。とても不健全なものだ。 「ただ、辛い世界から解き放ってあげたいと感じているんだよ。凄く歪んでいるし、全く正義とはいえないけれど。 「哀しい? 私はそうは思いませんわ。だって彼らにとってはその空間こそが安全な場所なのですよね? 「そうだね……。ただ俺はそうは思わえないんだ。幼い頃に熱帯魚を飼っていたことがあったんだけど、俺は狭い水槽に閉じ込められた魚が可哀想に思えた。 俺は水槽を叩き割った。すると当然そこからアロワナと大量の水が溢れ出した。 その様子がとてもとても嬉しそうで、動かなくなったアロワナの瞳を見て俺は満足したんだ。 俺は多分、それと同じことをしてるんだよ。狭い世界でも安全なところで生きている彼女達を外の世界へと導いて殺してるんだ。 「そうだ。無凍くんはただの人殺しだ。何も立派な人間じゃないぞ」 空風博士が唐突に声を上げた。 「君はぐだぐだぐだぐだと、長ったらしいんだよ全く。自己陶酔もいい加減にしろって話だ。気持ち悪りぃ。 こういう角の立つ言葉を本人の前の前で平気で言う。天才に変人が多いのは真実だと感じる。 空風博士は、日本でも五本に指に入る科学者だったそうだ。 話を聞く限りよっぽどの変人だが、名誉よりも自分の探求心を選んだという点からすると、かなり熱い人なのだろうか。 「悲しいですね。俺は博士のこと嫌いじゃないのに」 「嫌いじゃないは嫌いってことさ。好きだったら好きって言うだろ」 「深読みしすぎですよ」 「ふん。それより、どうするんだね? そのメールの彼女は」 「取り合えず……返事をして連絡取ります。興味があるので。では、そろそろ失礼します」 ソファから腰を上げると、エラトが後ろから付いてくる。 「お帰りになりますか? 杉夫さん。……と、そっちの白い奴」 「白い奴じゃないです。僕はエラトっていう立派な名前があるんです!」 「まあまあ」 隙を与えたらすぐ喧嘩だ。俺は二人の間に割り込む。 「では、失礼します。行こうエラト。またねノエルちゃん」 手を振ると、ノエルちゃんは微笑んだ。 俺はドアに手をかける。 「無凍くん」 空風博士に呼び止められ、俺は身体を止めた。勢いのついたエラトが背中にぶつかる。背中から鈍い声が聞こえた。 「人を殺すっていうことは、自分もいずれ殺されるかもしれないってことだ。覚悟は出来てるな?」 「……はい、とは言えませんが、覚悟はします」 「そうか。じゃあまた何かあったら言いたまえ」 「有難う御座います」 俺はそう言って、屋敷から出て行った。 |